政治と宗教の癒着が疑われる、という話が最近ニュースを騒がせています。
政治家たちが特定の宗教団体だけひいきにしているようで、これは政教分離の原則に反するのではないか、ということですね。
このようなことは度々言われており、この原則をルールとしようとしている以上はそこに則るべきなのですが、それだけに留まらない含みがこの話題にはあると指摘出来ます。
それらについて語ってみたいと思います。
宗教界に生きる人には政治は関係ないのか?
政治家と宗教団体がきちんと分かれていない、ということが話題になる度言えるのが、それでは宗教者や宗教の信者には政治の分野の概念はどう取り扱うことなのだろうか、ということです。
政教分離が守られなければ、ということが叫ばれるたび、一方でその点に不安があるとは言えないでしょうか。
政治家の仕事は国民全体に生き渡らなければなりません。
誰の分もある、というのが政治の仕事として正しいでしょう。
政教分離の出来た状態が、宗教が政治の理念から現れる物事一切と離れる、また一切とは言えないが部分的にどうしても同様の感じで離れているところが存在している、ということなわけはありません。
そのような状態であると、宗教が国の中で社会性を失います。
それは、起こらないよう気をつけておきたいことだと言えるはずです。
政教分離原則に則って行われた政治家の仕事が、宗教界にももちろん届いている、という形が理想ではないかといった視点も、持ち続けていたいものです。
宗教の話題が社会でとても肩身の狭いことになっている
今の日本では、宗教のことを人と話す時の話題として選ばないようにしようという風潮が強くなりました。
理由としては、人と意見がぶつかったりしやすく、しかもそのような場合に、喧嘩が非常に激しい様相になったりして大変だから、というものがよく言われます。
これらのような流れが生じてくるのも、今政教分離などのテーマが社会にあって、解決のためには一旦政治の場をクリーンにする方法を試したらいいのでは、という考えに人が至ることが多いからではないでしょうか。
そうしているうちに、宗教の話は社会における立ち位置を失ったかのようです。
それは、放っておくと宗教が社会における居場所を失った状態に近付きます。
このことには留意しなければなりません。
人は誰でも生きる上で自分の得意分野、向いている領域というものがあります。
それが単に自分は宗教だった、という人もいます。
その人たちの社会生活の立ち位置をなくしてしまうかのような方向性には気をつけてみる、というのは悪いことではないでしょう。
宗教と言えばカルト教団だけなのか
政治家との癒着などで話題にされるのは、圧倒的にカルト宗教が多いですね。
メディアを主に騒がしているのがそこだからか、今日では人が宗教と言えばカルト宗教のみを指して話をすることも少なくはなくなりました。
しかし、当然宗教はカルト系ばかりではありません。
そのため、尚更社会の中で宗教の話にもよい立ち位置を作って、カルトかどうかにかかわらず、宗教にまつわる話を全般的にしやすいように再度することが必要なように思われます。
やはり言及することが少なくなると、人はその存在を忘れて、消してしまいます。
しかし何の分野にせよそのような出来事はよくありません。
また、通常宗教という分野に対してだったら人は、そういった想定が出るだなんて畏れるものだったはず、ということを思い出すことも大事です。
まとめ
カルト宗教も、宗教と認められた経緯があるものです。
トラブルの多い場と言える側面がありますが、そこではやはりこの世のための宗教界が作る言葉の一角が賄われていますね。
その意味合いをよく考えつつ、政教分離や社会の構造などを捉えていくと、うまく皆で社会を理解し、作っていけるように思います。